東北大学公共政策大学院Newsletter Vol.4
(2003年11月14日配信)

本日(11/14)、東北大学公共政策大学院ホームページを更新しました。

東北大学公共政策大学院について、以下の各大学等で説明会(1時間〜1時間半程度)を開催いたします。日程は下記の通りです。事前申込み等は不要ですので、お気軽にご参加下さい。

1. 学士会館本館(東京・神保町): 11月25日(火) 18:30- 於:310号室

2. 一橋大学: 11月26日(水) 14:30- 於:本館3階30番教室

3. 福島大学: 11月27日(木) 16:30- 於:行政社会学部棟3階中会議室

4. 新潟大学 11月28日(金) 16:30- 於:総合教育研究棟D棟大会議室

5. 山形大学  11月28日(金)16:30- 於:教養教育1号館 111番教室

6. 筑波大学 12月1日(月) 17:00- 於:1C305(=第一学群C棟305教室)

なお、千葉大学におきましても、11月25日(火)16:15-に開催する方向で関係方面と調整させていただいているところです。

詳細については下記のサイトをご覧ください。
http://www.publicpolicy.law.tohoku.ac.jp/guidance_schedule.html

この場を借りまして、会場提供及びポスター掲示に御協力くださっている上記各大学に篤く御礼申しあげます。

なお、各大学等における説明会について、お問い合わせ等がありましたら、お問い合わせ用電子メールアドレス までお願いします。
各大学の事務室等にお問い合わせいただくことのないようお願い申し上げます。

最後に、今回もこの東北大学公共政策大学院の開設に携わっている教員のエッセイをお届けします。

(無題)

生田長人教授(都市法、元・国土庁防災局長)より

およそ民主主義を採用しているどの国においても、多かれ少なかれ見られることなのかも知れませんが、最近の我が国において見られる、政治指導者による意識的なポピュリズムとマスコミによるパパラッチズムの横行には、ため息を通り越して、顔を背けたくなる感があります。いずれもその基礎には、国民や国家のことを心から考えていない、というより国民を小馬鹿にした姿勢が見え隠れするように感じるのは私だけでしょうか。

数年前のことになりますが、ある作家出身の知事が自県内のダムの建設をストップすると宣言して物議を醸したことがありました。自然環境の保全の視点から、県内のダムの建設を中止することも一つの見識であることは間違いなく、私も詳しい事情を承知しているわけではないので、その判断の妥当性を論じる立場にはありません。しかし、本当に議論すべき問題は、ダムの建設が目的としていた洪水の危険の防御、すなわち県民の生命財産の保護が、そのことによってどのようになるかという点にあるのではないでしょうか。

ダムの建設を中止するのであれば、知事は、その政策選択の正しさを県民に対して説明する必要があります。すなわち、ダムの建設の前提となっていた洪水危険性の存在が誤りであったことを証明し、改めて県民に示すか、それができないのであれば、ダムの建設に代わる治水上の措置(例えば、引き堤、すなわち市街地を削って河川の疎通能力を向上させるとか、広大な遊水池を確保するとか)を講じることを県民に約束する必要があります。後者の場合、各代替措置に要する費用とその果たしうる効果(費用効果)を明らかにし、環境の維持保全効果も考慮に入れた上で、各代替措置に係る費用効果とダムの建設に係る費用効果とを比較衡量したものを県民に示して、選択を迫るべきだと思います。

このような対応は、県民の生命財産に対して責任を有する責任政治家としては最低限の責務です。このケースの場合、寡聞にして、私が知らないだけで、県民には、このような選択肢が提示されているのかも知れません。しかし、もし、ダムの建設の弊害のみを指摘するだけで、代替措置の提示・実施をしていないとすれば、彼はhumbug(ぺてん政治屋)と呼ばれても仕方ありません。政治指導者は、市民と同じレベルの目線でものごとを考えることが必要であると思いますが、同時に市民と同じレベルの目線でものごとを考えることしかしない者は、政治指導者としては不適格なのではないかと思うのです。

私的旅行における私的感慨と「公共政策大学院」

植木俊哉教授(国際法)より

数年前のことになる。休暇を取り、妻や子供たちと一緒に、南太平洋のフランス領ニューカレドニアに静養に出かけた。成田空港からニューカレドニアのヌーメアまで、直行便がある。行きの飛行機は、夕方遅くに日本を出発し、夜間飛行をして、早朝現地に到着した。帰りの飛行機は、朝ヌーメアを立ち、日中のまばゆい光の中、太平洋上空を飛行した。遊び疲れた多くの乗客たちは、機内で眠っている。しばらくして、窓の下に、いくつかの島影が見えた。私は、通りかかった乗務員の女性に尋ねた。「下に見える島はどこになりますか?」「イル・ソロモンです。」フランス語を交えて、乗務員が答えた。そうだ。「ソロモン諸島」の上空を今自分は飛んでいるのだ。窓から下を見たところ、真っ青な色の海の中に、いくつかの大きな島があった。その島の上空には、きのこ雲のような大きな積乱雲がいくつか出来ていた。あの雲の下では、ジャングルにスコールが降り注いでいるのかもしれない。そうだ。私が、休暇先としてニューカレドニアを選んだ1つの(ささやかな)理由は、成田とニューカレドニアを直線で結ぶ飛行経路の下に、あの「ガダルカナル島」があることであった。第2次大戦中に、日米両軍が死力を尽くして戦った激戦の地、多数の戦死者や病死者等を出した戦略上の要衝の島である。それから50数年が経ち、私たちが休暇中の家族旅行としてガダルカナル上空を飛行できる日が訪れたのだ。「50数年」という歳月が、長いものであったのか、短いものであったのか、私にはわからなかった。ただ、現在の私たちのこのような平和な生活が、過去のすべての人々の犠牲の上に築かれたものであることだけは確かだと思った。私は、この熱帯の島々で、戦いと飢えと病気の中で倒れていったすべての国の人々に対して、心の中で手を合わせ、ささやかな祈りをささげた。

これから「50数年」が経過した時、私たちの子供や孫たちがどのような生活を送ることになるのか、現在の私には想像がつかない。「滅私奉公」の名の下に動員され、これらの島々で倒れた無数の人々やその家族に思いを馳せるとき、第2次大戦後の日本において「公」や「公共」「公なるもの」が批判の対象とされ、「うさんくさい」もの、魅力のないものとして理解されたことも理由がないわけではない。しかし他方で、これから半世紀後の日本や世界の姿を実際に規定するものが、「公」の場での無数ともいえる政策決定の集積であることも否定できない事実である。おそらく、「公」を十分に顧みない社会や共同体は、いずれ長い目でみれば社会や共同体全体が大きな損失を受け、「痛い目にあう」のではないだろうか。

法科大学院で学んだ未来の法曹実務家は、訴訟の当事者たる個人や団体にとって死活的に重要な役割を果たすべき重責を将来担うことになる。他方で、公共政策大学院で学んだ未来の公共政策の専門家は、社会や共同体全体の運命を左右するという意味でそれ以上の重責を担うことになる。志のある多くの優秀な若い世代の方々が、本学の公共政策大学院に集ってもらえることを念願してやまない。

<編集後記>

11/9に総選挙がありました。94年の選挙制度改革によって衆議院議員の多くが小選挙区から選出されるように時以来、二大政党に収斂すると予想されていたことですが、実際、二大政党制の成立とも言えるような各政党の獲得議席数の状況でした。

しかし、今の日本社会の状況は、2つの政党でうまく対立軸を整理できるような状況ではないように思います。若年vs中高年、東京vs地方、ボーダレスに活動する企業・人vsそうでない企業・人、未来志向の人vsその時点時点で生きている人etc.

これらは単なる利害対立にとどまらず、価値観の対立を伴っている場合も多いように感じます。こういう様々な次元の乖離を見ていると、「日本社会の構成員が共有している何か」が、そもそも存在するのだろうか、と考え込むこともあります。

しかし、いかにグローバル化や地方分権が進んでも、「日本社会」や「日本政府」は、依然多くの人から必要とされるだろうと確信しています。ただ、その「日本」を一つの社会たらしめる何かを考え維持し創造していかないと、社会としてのまとまりを維持できないと思うのです。

少人数であっても、人間の集団を、社会としてまとめていき、そのまとまりを維持していくことは難しいことだと痛感します。ただ、それだけにchallengeする価値があることだと思っています。
(文責 田口左信)

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