東北大学公共政策大学院Newsletter Vol.24
(2006年8月29日配信)

■入試関係日程・場所(2007年4月入学志願者用)

平成19年度(2007年度)公共政策大学院入学試験の日程について、再度お知らせいたします。

 出願受付期間: 平成18年9月4日(月)〜9月8日(金)
 第1次選考試験: 平成18年9月30日(土)(仙台、東京)
 第1次選考合格者発表: 平成18年10月13日(金)
 第2次選考試験: 平成18年10月28日(土)、10月29日(日)(仙台)
 最終合格者発表: 平成18年11月17日(金)

なお、入試関係のより詳細な情報は、下記のURLをご参照ください。
http://www.publicpolicy.law.tohoku.ac.jp/admission/2007/ad_exam_schedule.html

■公共政策ワークショップの紹介記事

東北農政局の広報誌「土と水と、人間と」2006年7月号に、平成17年度公共政策ワークショップI「広域市町村における新たな食料・農業・農村基本政策の推進方策」の紹介記事が掲載されました。以下のURLからご覧いただけます。
http://www.tohoku.maff.go.jp/magazine/magazine_18_7/19toukou/19toukou-1.html

■教員エッセイ

今回は、仲野武志助教授のエッセイをお送りします。

国民主権・民定憲法・戦争放棄―公法学における<密教>と<顕教>―

仲野武志

いかなる知的分野にも、<顕教>すなわち世に流布した通俗的な教えと、<密教>すなわち知る人ぞ知る秘密の奥義があります。公法学の世界も、その例に洩れません。

戦前の小学生は「天皇陛下は神様です」と教わりましたが、これは典型的な<顕教>でした。ところが彼らも、晴れて東北帝国大学までやってくると、「天皇は国家法人の機関である」という<密教>を聴いて、目からウロコを落としたのです。

ここでは、明治憲法・現憲法に関する3つの<顕教>を取り上げ、その背後にいかなる<密教>があるかを一緒に考えてみましょう(公共政策大学院の公法科目では、公法全般にわたって、この作業を行ってもらいます)。

第1は、「明治憲法下では主権者たる天皇が、戦争責任はもとより、全国政の最終責任を負う」という<顕教>について。何々、明治憲法4条には、「天皇ハ…統治権ヲ総攬シ…」と書いてあるじゃないかですって? でも、その続きを精読して下さい。「…此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」とありますね。明治憲法は、天皇が法律を制定・改廃することができると規定していますか? 天皇が各国務大臣に命令したり、閣議決定を取り消したり、大審院や行政裁判所が言い渡した確定判決を破棄自判することができると規定していますか?

朝鮮総督の権限規定と対比してみましょう。「朝鮮ニ於テハ法律ヲ要スル事項ハ朝鮮総督ノ命令ヲ以テ之ヲ規定スルコトヲ得」(朝鮮ニ施行スヘキ法令ニ関スル件1条)、「総督ハ所属官庁ノ命令又ハ処分ニシテ制規ニ違ヒ公益ヲ害シ又ハ権限ヲ犯スモノアリト認ムルトキハ其ノ命令又ハ処分ヲ取消シ又ハ停止スルコトヲ得」(朝鮮総督府官制5条。司法部も総督府の下位部局でした)。

奈良時代には、天皇自らも政策を立案することができました。しかしながら、口勅(天皇の発話行為)だけで官僚機構が動き出すなどということは、絶対にありえませんでした。天皇の企画した政策が実施に移されるまでには、左右大臣・中務省の関与する相当複雑な手続的関門を経ることを要したのです(岩波・日本思想体系『律令』の公式令(くうじきりょう)のところを見て下さい)。

要するに、あの簡潔な明治憲法から、天皇が国政を決定するなどとは、どう引っくり返しても読み出しようがないのです。換言すれば、天皇は戦前から「象徴」でした。「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」(明治憲法3条)とは、そういう意味です。福沢諭吉のように<顕教>に眩惑されない頭脳明晰な人物は、「万機を統ぶる」は「万機に当たる」を意味せず、と喝破しています。

これと関連して、「司法権ハ天皇ノ名ニ於テ…裁判所之ヲ行フ」という明治憲法57条を「司法権が独立していない」と非難する<顕教>がいかに無根拠であるかも、もう分かりますね。「天皇ノ名ニ於テ」とは「司法大臣を始めとする誰の指揮命令下にもなく」という意味にほかなりません。

第2は、君主から授かった欽定憲法である明治憲法に対し、現憲法は民定憲法である点において優れているという<顕教>について。明治憲法を民定憲法として採択するためには、あらかじめ衆議院議員を選挙しておく必要がありますが、一体誰が衆議院議員選挙法(現・公職選挙法)を制定するのですか?

確かに、<政治>は<法>に全面的に従属するものではありません。法的手続なしに正統な政治的意思が表明されることもあります。民衆の圧倒的多数が支持していれば、投票を行うまでもないからです(公職選挙法100条に定める候補者1人の場合の無投票当選には、この考え方が示されています)。皇帝の世襲制をとらないローマ帝国では、属領に駐屯する軍団兵士の喝采(ドイツ語でアクラマツィオーンといいます)を浴びた司令官が帝位に推戴されることがよくありました(フランスのドゴール大統領はアルジェリア滞在中、同様のやり方で権力を掌握しましたが、のちにアルジェリア駐屯部隊の叛乱に悩まされることになります。朝鮮では、李成桂が「威化島の回軍」を機に、天命我にありと唱えて新王朝を開きました)。

何々、フランスの1789年憲法は議会(中世に起源をもつ貴族・聖職者・平民代表からなる身分制議会)において採択されたじゃないかですって? とんでもない。あれは日本風にいうと、与党議員を締め出して野党議員だけで議長を選出した上「本案は賛成多数により可決いたしました」とやったようなもので、法的には無効な議決です。だからこそ「革命」の名に値するのです。

明治20年代の日本で革命をやっている余裕がありましたか? 徳川慶喜は何を考えて江戸を無血開城させたのですか? 内乱と革命に明け暮れた同時代の清朝が、最後には内国税の収入まで担保にして列強に賠償金を払わされたことを忘れたのですか?

そうか、欽定の明治憲法があったからこそ民定の現憲法がありえたのか、と思うかもしれません。惜しいですが、あと一歩足りません。現憲法は明治憲法を廃止したのではなく、改正しただけです(大きな六法に載っている公布文を見て下さい)から、ここでの<密教>は、近現代を通じてわが国には一つの憲法典しかなく、それは欽定だということです。

第3は、現憲法9条について。「自衛のための最小限度の実力は戦力には該当しない」という政府見解は「般若湯は酒には該当しない」と説くのと同じだ、といった指摘をよく耳にします。筆者にはそのような外在的批評をする気はありません。ちなみに、後者の命題を完全に論駁し去るのは意外と困難ですよ。

ここではむしろ、「国家」とは何かということが最大の問題になります。公法学における「国家」の最小限の要素は、突き詰めると、内にあっては治安を維持し、外に対しては外敵の侵寇を防ぐという点に尽きます。このため、交戦権を否認する現憲法は、明らかに、その表題(日本「国」憲法)に矛盾することになってしまいそうです。

確かに、現憲法9条は、日本国は主権国家でないことを厳かに言明するものにほかなりません。しかしながら、これを、占領終結と同時に発効した日米安全保障条約(現憲法98条2項は条約の誠実遵守義務を定めています)と合わせて読んでみましょう。そうすると、日本国は第一次日韓協約後の大韓帝国や現在の北マリアナ連邦のような「保護国」である、という意味において、現憲法が立派に論旨一貫していることが分かります。試しに、日満議定書と(旧)安保条約を比べてみてください。そう、現憲法にいう「国」「国家」とは、必ずしも「主権国家」とは限らないのです(逆にいえば、現憲法9条は安保条約と一緒に読まないと意味をなさないということです。冷戦下、最も親米的だったのは反米左翼たちでした)。

戦略爆撃機と巡航ミサイルも持たないで拉致被害者返還交渉に臨むのは、誘拐犯に水鉄砲を向けて人質解放を呼びかけるのに等しいことです。その北朝鮮の工作船に舟山群島の海軍基地を提供してきた中国が、何の民主的正統性もない自政権に対する民衆の不満をそらすため、プロパガンダ教育を行い、警官先導で日本人・企業に対する破壊行為を行い、在外公館の不可侵を犯し、また広島・長崎を始めとする日本の各都市に核ミサイルを向けつつ、日中平和友好条約に違反する正当の理由のない金銭的要求(皆さんがやると刑法249条の恐喝罪を構成するのでご注意)と内政干渉を際限なく繰り返し、毎月のように「自称侵略戦争被害者」を仕立てて日本の民事裁判所機構に多大な負荷を掛け、廃棄物を海洋投棄させて世界有数の沖縄の珊瑚礁を台無しにし、日本企業の知的財産権侵害を野放しにし、ルイ14世時代の強弁を持ち出して天然ガスを盗掘している(かつて仙台で学んだ魯迅がみたら、さぞかし腰を抜かすことでしょう)のを目の当たりにしながら、「諸国民の公正と信義に信頼して」(現憲法前文)阿Qのように追従を繰り返すわが政府高官は、「保護国たる日本国」憲法を尊重し、擁護する義務(現憲法99条)を立派に果たしているのです。

(著作権及び文責は仲野武志に帰属します)

▲このページの先頭へ