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■プロジェクトC:東日本大震災が日本外交に及ぼした課題と機会

1.趣旨(講義要綱より、当初の想定)

 東日本大震災と福島第一原発事故は、日本外交にも大きな影響を与えた。「日本外交に与えた課題と機会」という切り口で論点を整理・検証し、提言を創り上げていく過程を通じて、以下の7つの視座と能力を養うことを目的とした。

  • 世界の中の日本という視点
  • 外交の現場を疑似体験・実感し、外交の本質を理解すること
  • 外交の幾つか側面に対する理解(援助、エネルギー安保、情報発信等)
  • 問題発見、課題設定、情報収集分析、言葉と口頭でのプレゼン能力
  • プロセス全体(作業とスケジュール)の管理能力
  • 折衝、調整、交渉能力、社会人としての基本(挨拶、時間厳守等)
  • コラボレーション(共同作業)能力

 外務省でも、本テーマは多くの側面(部局)にわたるため、全体としての事後検証と総括は行っていない。地元の利を生かし被災地ヒアリングを行うことで、学生が「被災地視点」という付加価値を追求できると考えた。

 学生には、緊急支援、エネルギー安全保障(原発事故の影響)、情報発信(原発事故、風評被害、復興PR)、「開かれた復興」のための経済外交、防災外交等、多岐にわたる「メニュー」を想定しうる論点として示した上で、学生自身が議論し整理することとした。

2.経過

(1)4〜6月

 調査課題の背景や文脈を理解するため、担当及び副担当教員による講義の他、関連する書籍(洋書3冊を含む)や論文の輪読から始めた。学部時代に国際政治や国際関係論を勉強していない学生には、別途同時並行で開講した講義(外交体系論)で外交一般に関する理解を補うことを求めた。

 同時に、外務省から、緊急対応(緊急援助隊の派遣、東日本大震災時の外国からの支援受け入れ調整)を担当していた課長、及び、国連における防災を担当している企画官を講師招聘した他、NGO関係者からの講義も受けた。

 さらに、これと並行して、仙台市役所、宮城県庁、福島県庁、岩手県庁(達増拓也知事への表敬訪問を含む)、韓国総領事館を訪問した。これらの訪問は、事前に教員より原則的な受け入れ了解を得ていたものではあるが、具体的な日時設定と段取りは、学生が役割分担をして行った。この段階の訪問は、ヒアリングというよりは、講義や説明を受ける、アポイントメントの時間と段取りをつける訓練、夏休み以降の市町村レベにおけるヒアリングの準備といった意味合いのものであった。

(2)6月〜7月

 この過程で、原発事故は、文系の学生には専門性が高すぎること、原発に対する政府のスタンスが固まっていなかったこと等を理由に、研究対象から外すことを学生達は議論して決めた。

 6月下旬には、前半のハイライトとして、一泊二日で上京し、外務省(原発、情報発信、経済外交、トモダチ作戦等に関する講義を4コマ)、復興庁、内閣府防災担当部署を訪問した他、英国、フランス、ノルウェーの在京大使館を訪問し、大使他からレクチャーを受けた。

 この過程で「全体像が分からない」と言い出す学生も出た。しかし、全体を鳥瞰できる学生から、自然災害をきっかけとした外交の在り方を考えるとして、緊急対応〜復旧復興〜防災事前準備まで、いわゆる「災害サイクル」を繋ぐ形で新しい「災害外交」の確立と実践とを目指す、という方向性が打ち出され、その方向性に沿って議論と作業を進め、7月末の中間報告会に臨んだ。

(3)夏休み(8〜9月)

 学生は、中間報告後の作業予定を議論・検討しないまま中間報告に臨み、また報告会直後にきちんと打ち合わせをする時間を決めないまま五月雨に帰省を始めた。その中で、全体の枠組みに異議を示す学生が一部に出だした。

 本来であれば、秋以降の調査研究のスケジューリングとTO-DO-LIST作成を行い、ヒアリングも開始すべき時期ではあるが、全体の枠組みと研究の射程を中途半端な状態にしたままにして、2か月間を有効に使えない結果になった。

 防災を念頭に仙台市役所(2015年国連防災世界会議の担当部署)、復興を念頭に復興庁と東北JICAに計3名のインターンシップをアレンジした。インターン自体には意味があるが、研究対象には直結しない形となってしまった。

(4)10〜11月

 10月になっても研究の射程が定まらなかったが、緊急対応とそのための事前準備の段階に焦点を絞り、テーマを「東日本大震災を契機とした自然災害時の国際支援の在り方」として、「支援の受け入れ」「日本による支援」「ネットワーク」の3つの側面で進める、ということを学生の責任と判断で決めた。

 最初は、なかなか基礎自治体へのヒアリング着手も壁が高そうであったが、10月下旬頃から何とか始め、いったん始めてみると、ほとんどの学生は積極的にかつ自主的にヒアリングに出かけるようになった。

 学生7名を「受援」男子学生3名、「支援」女子学生4名で分け、「後で一緒にネットワークに取り掛かる」と学生が話し合って決めたが、結果的に、ネットワークで取り扱う内容、誰が行うか等、後回しになる結果となってしまった。

 11月にフィリピンで発生した巨大台風とそれに対する日本の支援(自衛隊の派遣等)は、新たな研究の材料と視点を提供することとなった。

(5)12月

 最終報告会に向けたプレゼン資料の準備に費やされた。この段階になっても、受援の一部と、ネットワーク(結局、地域協力とした)における提言が固まっていない状況であったが、何とか最終報告会までには帳尻を合わせた。

 その結果、全体の枠組みや視点といった総論や総括部分の最終報告書案の執筆を十分に行うことなく、最終報告会に臨むこととなってしまった。

(6)1月〜2月

 最終報告書の作成と校正(スタイルや表記の統一など)に費やされた。最終報告会以降、冬休みの間に更に調査や検討を重ね、分析と提言をより深めたり、洗練させたりする学生がいた。一方で、最終報告会の前後に指摘された点を殆ど顧みずに済ませている学生も見受けられた。また、自分自身で起案した文書を自分自身でチェックすることの限界を理解し、お互いに加筆訂正・校正し合う、ということが出来ない学生も少なくなかった。

 報告書提出後の、関係者へのお礼回りや提言の報告は、学生が主体的かつ積極的に行った。

3.成果と評価

(1)「国際社会、特に近隣地域では『困ったときはお互い様』(互助)」「相手の立場に立って考える」「他国を支援することは結局自国のためにもなる」等の(学生が自覚しているか否かは別にして)外交の本質的側面について理解を得られたようである。そして、緊急対応面に焦点を絞り論理的な整合性を維持した形で、最低限の水準を維持できた最終報告書を纏められた点、さらに、事後のお礼回りや報告を自主的に行っていた点は評価できる。

(2)また、共同作業プロセスの面でも、7名のグループ内で、対立や、完全な脱落者もなく、議論を重ね、適宜フォローし合い、完遂できた点は評価できる。学生により程度の差はあるが、取り組む姿勢、共同作業を円滑にするための他者への配慮や協調性でも、大きな問題を抱える学生はいなかった。

(3)他方で、他者に配慮しすぎてか自分の意見を主張できない学生もいた。また、他の学生を引っ張ってまで進める学生もいなかった。先を見通してスケジュールとTO-DO-LISTを作成して管理しながら実施していく、という面では、今後のさらなる成長を期待したい。挨拶をする、時間を守る、ホウレンソウ(報告・連絡・相談)等、社会人としての基本は身に付いたものと期待したい。

(4)原発を研究対象から落とすことまでは、教員としても想定内であった。しかし、復旧復興と防災まで落としたことは、2015年3月に国連防災世界会議の仙台開催が決定していること、中間報告会において教員が想定していた以上の枠組みと方向性を自分たちで構築できていただけに、残念であった。
 研究の射程を絞ったために、受援や支援など、各分野での先行研究があり、また実務家も取り込んでいるところ、「差別化」や「付加価値」を追求することが難しくなった。緊急対応〜復旧復興〜防災と、分野横断的に取り組めば、関係省庁でも部局も分かれているため、それらを繋げる形で付加価値の可能性が生まれる、という発想を持つことができなかった。

(5)最終報告の仕上がりや学生の能力からして、中間報告会における方向性に従って研究を進めても、それなりの最終報告には至っていたと考える。それだけに、夏休みの2か月間を空費した分、最終報告会、及び、最終報告書執筆にしわ寄せがくる結果となり、もったいなかった。

(6)社会に出る前に、以下の点を学生が学んだとすれば、良かったと考える。

  • 「何をするか」以上に「どう行うか」「とにかく始める」ことも大事
    (起業するのでなければ、仕事とポストは自分では選べない)
    (取り組まない「言い訳」を探して、先延ばしにしない)
  • 何か明確な一つの問題が与えられている訳ではない
  • 何かの施策に関し、全員が共有している唯一の目的があるわけではない
  • 問題解決だけではなく、何かプラスにできる「機会」がないか考える
  • 何か一つの施策をとれば、直ぐに問題の全てが解決する訳ではない
  • 社会における共同作業は、「同じことを皆で行う」ことではなく、
    「自分の責任範囲をこなすことで全体が出来上がる」ことが多い
  • 人は集団になると、アイデアをぶつけ合ってプラスの面も生まれるが、他方で「集団的無責任」「低いレベルに合わせてしまう」危険もある

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